食料事情と食事回数について

 小学生か中学生くらいの古い記憶によれば、1日3回食事をする習慣は、室町時代くらいに成立したと習ったように思います。このことをあまりしっかりと確かめたことはないのですが、

奈良時代の貴族社会になって、食事は朝夕の1日2度とし、その他、間食を摂るという食習慣が成立した。
(『日本の食文化*1』p102)

武士は平時には朝夕の2食が普通であったが、その分量は3食分に相当したようであり、戦場ではげしい働きを強いられ、戦乱が続く世となるにつれて、武士も1日3度の食事が習慣化していく。
 武士社会の必要から発生した実質1日3度の食事は、室町時代に始まり、江戸時代に一般化した。
(同 p103)

と言いますから、この記憶はあながち間違いではなく、また現在でも一般的な認識であるようです。

 さて、この1日3食。先に引いた引用文の続きを見てもそうなのですが、食料事情がよくなったから、と説明されるのが一般的であると思います。

(1日3食となった)背景には、農業の発達により米の収穫量が増大するなど、食料事情が増大し、さらに座や問などの流通が発達して、食料の入手が容易になったことにある。
(同上)

 小中学生当時もそのように習った気がしますし、「食料が容易に入手できるようになった → より食べる」という図式は直感的にも正しいように思います。

 しかしこのことに関して、別の説明もできるようなのでした。

『食生活の構造』*2によると

 民俗学者宮本常一は、1日2回の食事では激しい労働をする際には夕飯までにお腹がすくので、昼に間食をとった、その習慣が次第に定着していき、1日3回の食習慣が根づいたと言った上で、重要な別の条件があったのではないかと付け加えます。

(米を中心に見れば、15世紀以前はおそらく米は玄米のまま食べられていたと考えられているが)ヌカのついた米は比較的腹持ちのよいものである。そこで玄米を食べた頃には(1日)二食であっただろうといわれている。
(『食生活の構造』p24)

日本は十五世紀入ってから世の中の安定を著しく欠き、応仁元年(一四六七)以後は戦乱が相つぎ、食料事情が極度に悪くなる。そして一五六〇年(永禄三年)頃には京都では米はほとんど食べられなくなって、菜っ葉やダイコンのようなものを食べていたとガスパルヴィラはヤソ会へ日本の様子を報告している。おそらく雑炊を食べていたものではないかと思われる。
(同 p25)

そういう食事のとりかたは飢饉時に見られたものであるが、長い窮迫の生活が続いて来ると、そのような食事のとりかたがあたりまえのことになっていく。そして定食と定食の間に間食*3をはさんでいく。(略)
 このように間食の回数がふえて来たことは同時に食事の質の悪くなったことを物語るものであった。
(同上)

 このように、戦乱によって食料事情が悪くなり、腹持ちのする食べ物を食べることが少なくなった結果、1日に何回も食事をするという風習が定着していったのではないかというのです。各地の報告によれば1日7回も食べることがあったという例もあるそうで、著者はそれは例外としても、1日に4回くらい食べるのは普通のことであっただろうと推測しています。

 そして、食料事情の悪さを回数で補うといった手法は、おそらくは1日3回の食事が定着した後も地域によって行われていて、

近畿地方から瀬戸内海にかけては粥を多く食べたが)しかしかゆだけ食べたのではすぐ腹が減ったので、かゆの中に何かを入れた。さきにも書いたように団子、ダイズ、蚕豆、サツマイモなどが多かった。それでも腹がよくすくので、食べる回数を多くしたのである。(同 p7)

江戸のような町では昔から米を食べて暮らしてきた。(略)田舎に住むものにとっては必ずしもそうではなかったことは以上の通りである。そして米以外の食べ物は腹持ちが悪く、すぐ腹が減ってくるものである。そこで食事の回数もおのずから多くなってくる。(同 p23)

と言います。

 この論で言えば、室町以前よりもはるかに腹持ちのする食事をとっているであろう現代では、当時の栄養状態でよしとするのであれば、1日2回、いや1回の食事でよい、あとは適宜の軽食でしのげばいよいのだ、と言えるのかもしれません。

どちらが正しいかはわからないんですけどね

 このように、1日3回の食事をするようになった理由として、かたや、食料事情がよくなったことを語り、かたや、食料事情が悪くなったことを語っています。全く反対のことを言っているのですが、判断するすべを持たないわたくしとしては、どちらもそれらしく聞こえるから困ってしまうのでした。

*1:日本の食文化―その伝承と食の教育

*2:食生活の構造 (シリーズ食文化の発見(2))

*3:ちなみに、定食と間食の差は、お膳が出るか出ないかになった、そうです。