「ご飯はなんにでもあう」というけれど

飯(白ご飯)は、日本料理はもとよりあらゆる料理(中華料理、フランス料理、イタリア料理、インド料理など)とも嗜好的相性がよい。これは、炭水化物源としての穀類のなかで、小麦やトウモロコシにはみられない。このことは他種類の食材を摂取するためのパートナーとして飯が優れていることを示している。
(『季刊 栄養教諭 第9号』p64)

 この種のことは、わたくしの周りではよく耳にします。また、わたくし自身が食べるときに限定すれば、ご飯がいろいろな料理とあうことに同意致します。しかしながら、これはわたくしがご飯を主食にする生活を長きに渡って行ってきた結果、さまざまなものをおかずにしてご飯を食べたことがあるという経験によって培われたものではないかとの疑念があるのです。

 たとえば、クスクス主食の北アフリカでは、わたくしや、わたくしの周りがご飯食をこのような言説で持ち上げるのと同様に、やっぱりクスクスはなんにでもあうねなんて家族で談笑しながらエビチリを食べたり、このようにクスクスはなんにでもあうわけですから我々はクスクス食を推進しなければならないのですと、食育関係者の集う研修会で語る偉い人などがいるのではないかと思うのです。

 もちろん、冒頭の文章は完全に日本人に向けたものなので、「日本人にとって」という言葉が暗黙の了解事項として省略されているだけかもしれません。ただ、むやみやたらにご飯や日本の「伝統食」を持ち上げる文章には敏感な年頃ですので、ご飯の完全な優位性を説いておられるのか、はたまた文化内の優位性を説いておられるだけなのか、非常に気になってしまうのです。

 もし文化内の優位性であるならば、文意には同意いたしますが、しかしそれも現在の食文化内に限ってのこと、今後も同じような優位性を確立しているかどうかわかりません。ご飯食を推進する強力な理由にはならないでしょう。またもし完全な優位性であるならば、少なくともわたくしの現段階の知識では同意しかねるところなので、これもご飯食を推進する強力な理由にはならないでしょう。

 したがいまして、現段階でご飯食を推進する理由はあまり持ち合わせておりません。米飯給食週4回とか仰ってますが、3回でも十分じゃないでしょうか。