東京栄養疫学研究会の動画を見て反省した話。

 先日聞いた講演が素晴らしかったので、東京栄養疫学研究会のアップされている講義の様子を見る。

 まだ2014年の春季会の1全部と2の冒頭しか見てないのですが、佐々木先生はどうやらものすごく熱弁家で、講義がとても面白い。たぶん予備知識なく見ても、引き込まれたのち疫学の知識がついているんじゃないでしょうか。

 さらに、冒頭の話、檄とでもいうか、これも面白いのですが、反面、己の興味関心でふわふわとしている僕にとってはものすごく耳が痛い。

(1:20頃)みなさんはですね、大学が、または社会が、自分に、なにをしてくれるかということを望んではいけません。自分が、社会に対して、なにが出来るかを考えるべきなんです。

 社会のなかには、たくさんの役割があります。その役割のなかの、どこが自分にとってふさわしいか、自分に適しているか、それによって社会はどのように変わるか、ということを考えてほしいんですね。なにをしてもらえるかというのは、子供の発想です。社会のなかでなにが出来るかというのが大人の発想です。

 うん、社会の役割とか、正直あんまり考えてないなあとか、

(7:40頃)(大学医学部の生理学の試験が「塀の上に猫がいます。猫の落ち方を生理学的に記述せよ」であったことを受けて)そこで思ったことです。しまった、講義は出ていたが猫を見ていなかった。

 おそらく先生方か伝えたかったのはそういうことじゃないかなと思うんです。すなわち猫も見よ、教科書も読め。で、その次です。一番大きなメッセージは、猫の動きと教科書を頭のなかで繋げろということだったと思うんです。教科書は教科書、猫は猫、それではいけません、ということではないでしょうか。

(略)

 というわけで、勉強するということは、私たちの学習の半分でしかありません。いや半分は占めているんです。もうひとつは、現実を、見抜く力。それから見ようとする心。そしてその態度、行動です。

現実社会の観察を怠ってるよなあとか、

(10:50頃)すなわち、もうみなさんは、高校生ではないのです。ある決まった教科書を習って、合格点をとるという時代は、もうとうの昔に終わっています。そうではありません。わからないものに対して、それを調べに行ったり、社会でつくったりする、そういう、もう年齢なんです。十分に。ですから、座って聞いてさよならというのは、それはもう、高校三年生までです。そういう人がもしもいるなら、早く帰りなさい。この勉強会には向いていません。そしてそういう人は、おそらく、十中八九、社会の役に立ちません。

わからないことへの解決を、社会の中で作っているとは言い難いよなあとか、または春季会の2の冒頭部分、

(1:30頃)ここはですね、自分の、興味で勉強しているのではないということは自覚しておいてください。カルチャースクールではありません。カルチャースクールではないのです。世の中の役に立つ人間をつくろうという、そういう情報をみんなに広めていこうよねっていう、そういう勉強会です。

主に興味でしか勉強してないよなあとか、なんかすごく反省してしまったのでした。

 ただ一方で、社会の役に立つかどうかよりも自分の興味に従うのだって大切だろうと思っていて、

 自然科学は新しい発見がどんどん生まれる世界です。……自然科学と同じ意味で学問の役割を評価するならば、人文・社会科学は何の役にも立ちません。

 しかしそれでもよいではありませんか。時間が許す限り、力のある限り、自分自身の疑問につきあってゆけばよい。文化系の学問は己を知るための手段です。あなたを取り巻く社会の仕組み、あなたがどのように生きているのかを知る行為にすぎません。
(小坂井敏晶『社会心理学入門』*1あとがき)

 研究のレベルなど、どうでもよい。どうせ人文・社会科学を勉強しても世界の問題は解決しません。自分が少しでも納得するために我々は考える。それ以外のことは誰にもできません。社会を少しでも良くしたい、人々の幸せに貢献したいから哲学を学ぶ、社会学や心理学を研究すると宣う人がいます。正気なのかと私は思います。そんな素朴な無知や傲慢あるいは偽善が私には信じられません。
(同上)

という諦観の仕方も素敵だと思うのです。まあ、栄養疫学と心理学の、そもそもの学問の立ち位置の違い、なのかもしれませんが。

 そんな具合なので、耳は痛くはあるのですが、これからも揺れ動いてしまうのだろうなと思うのでした。