トリインフルエンザウイルスについての疑問を調べてみた。

 栄養学とも食物とも関係なくて、特に詳しいわけでもないインフルエンザについての話です。

 ことの発端はインフルエンザウイルスが感染・増殖するのに、ウイルス表面にある2つのたんぱく質、ヘマグルチニンとノイラミニダーゼが重要な役割を果たすと聞いたところから始まります。インフルエンザウイルスは、ヘマグルチニンによって細胞表面にある糖鎖にくっついてそこから侵入を果たし、細胞内の核を利用して増殖したのちに再び細胞表面に移動して、ノイラミニダーゼによって細胞表面から切り離されて旅立っていくのだそうです。ヘマグルチニンが機能しなければ細胞内に侵入できず、ノイラミニダーゼが機能しなければ細胞から出て行くことができない=ほかの細胞に感染できない。したがって、2つのうちどちらかを機能できなくさせれば、それ以上の感染拡大を防ぐことができるというわけです。

 たとえばタミフルという薬がありますが、これはノイラミニダーゼと結合することによって、インフルエンザウイルスが細胞表面から分離することを防ぐのだそうです。そうすることによって、ほかの細胞への感染を防ぐ。ウイルス自体をやっつけるわけではなく、ほかの細胞へ感染が広がるのを防ぐものですので、感染の初期に飲まないと意味がない。発症してから48時間以内に飲みましょう、というのはそういう理由からだそうです。

 ヘマグルチニンとノイラミニダーゼは、ウイルスによって様々な型があります。「Aソ連型」といわれるウイルスのそれは、ヘマグルチニンが1、ノイラミニダーゼが1で、”H1N1”、昨年流行した新型インフルエンザは、”H1N1”の亜種、パンデミックが心配されているところの高病原性トリインフルエンザは、”H5N1”だそうです。型によって細胞表面の糖鎖を認識するので、型があわなければウイルスは感染することができません。

 ここで疑問が生じます。

 H5N1のトリインフルエンザは、現在のところヒトからヒトへの感染はないのですが、しかしトリからヒトへの感染は確認されていて、かなり高い致死率を誇っています。トリからヒトへ感染するということは、トリインフルエンザのヘマグルチニンがヒトの細胞表面にある糖鎖と結合し細胞内に入ることができ、さらに細胞内で増殖したのちノイラミニダーゼによって細胞表面から離れることができる、ということを意味しているはずです。つまりこのウイルスは、細胞内に入って、増殖して、細胞から出ることができる。それなのにどうして、ヒトからヒトへは感染しないのでしょう?

どうしてトリ→ヒト感染はするのに、ヒト→ヒト感染はしないの?

 まったくの門外漢であることを恐れず調べてみると、確かにトリのインフルエンザウイルスとヒトのインフルエンザウイルスでは、結合できる糖鎖に違いがあるようです。細かい話をすれば、トリのインフルエンザウイルスはα2,3結合型シアロ糖鎖(SAα2,3)と結合し、ヒトのインフルエンザウイルスはα2,6結合型シアロ糖鎖(SAα2,6)と結合します。したがって、通常トリのインフルエンザウイルスは、そのまま人に感染することはないのです。

 しかしながら、『A型インフルエンザウイルスの宿主適応機序解明に関する研究』*1によれば、ヒトの細胞表面にも、トリインフルエンザのレセプターとなるSAα2,3が存在している、といいます。上部気道にはSAα2,6が主として存在しているものの、下部気道ではSAα2,3が存在していて、上部気道でも、繊毛を有する鼻粘膜細胞の一部でSAα2,3が発現しているそうです。

 また、『レセプター特異性の違いはトリインフルエンザウイルスのヒトへの感染を防ぐバリアとして機能しうるか』*2によれば、ヒト肺上皮ガン由来の細胞が弱毒型のトリインフルエンザウイルスに感染するか実験したところ、感染が確認されたとあります。ただし、ヒトインフルエンザウイルスとの比較では、その感染力(ウイルス抗原陽性細胞数)は小さいこと、増殖力もまた小さいことが示されています。

 以上から、ヒトにも下部気道にはトリインフルエンザウイルスレセプターが存在し、トリインフルエンザウイルスに感染するものの、しかしウイルスの増殖能はヒトインフルエンザウイルスの場合と比較すると大きなものではない、ということになります。

 ではなぜ、高病原性トリインフルエンザは高病原性たり得ているのか、また、なぜトリインフルエンザレセプターが存在するのに、ヒトからヒトへの感染はまだ生じていないのか。

 前者の疑問に対しては、実験があくまで弱毒性のトリインフルエンザによるものであった、という答えが示せそうです。弱毒性であるがゆえに、ヒトの細胞に感染しても、多くの増殖はできなかった。実際、『ヒト体内におけるインフルエンザウイルスのレセプター分布』*3では、

それではなぜ、鳥由来の高病原性H5N1ウイルスが、人に重篤な疾患を発病させるほど効率よく増殖できるのだろうか?

との問いを立てています。つまり高病原性のトリインフルエンザウイルスは、やはりヒトの体内で効率よく増殖できているのです。

 では、後者の問いはどうでしょう。高病原性のトリインフルエンザウイルスがヒトの体内で効率よく増殖できるらしいとされた今、なぜヒトからヒトへの感染はまだないのか、という問いはより重要な意味を持ってきます。

 同じく『ヒト体内におけるインフルエンザウイルスのレセプター分布』は、レセプター分布がそうさせているのだ、と言います。

 前述した通り、ヒトにおけるトリインフルエンザレセプター分布は、鼻粘膜の一部と下部気道に発現しています。上部気道に存在しているのは、ヒトインフルエンザレセプターであるSAα2,6のみです。したがって、仮に高病原性のトリインフルエンザウイルスに感染しても、感染しているのは下部気道の細胞がほとんどで、上部気道の細胞は感染していないということになります。上部気道の細胞が感染すれば、咳やくしゃみを引き起こしてそれとともに大量のウイルスが飛散することになるのですが、下部気道感染ではそれがない。感染者から排出されるウイルスが少量なので、ヒトからヒトへの感染が起こりにくい、というわけです。

 ただ、本当に答えがそれだけですむのかどうかは、疑問が残ります。

 ヒトから分離されたトリインフルエンザウイルスの中には、SAα2,3だけではなく、ヒトのインフルエンザレセプターたるSAα2,6を認識できる変異が起こっているものがあったそうです。それは、「長鎖型のα2-6型のシアロ糖鎖を認識するまでには至らない」*4という正直よくわからない理由から完全な適応はまだできていないとされますが、上部気道の細胞にも感染できるようになる重要な変化が、ヒトに感染したウイルスの中ではすでに起こってるのです。

 しかし、それでもまだ、ヒトからヒトへの感染は幸いなことに起こっていません。このことから、ヒトからヒトへ感染するようになるには、ヒトのレセプターを認識できるようになる変異のほかに、まだなにがしかの変異が必要なのかもしれないと『ヒト体内におけるインフルエンザウイルスのレセプター分布』はまとめています。が、そのようなまとめをされたところで専門家でもないわたくしに推察できるわけもなく、とりあえず以上の結果を得たことで満足するしかないのでした。