食育の技法

 「砂糖についてちょこっと語ってみた」という素晴らしい記事があります。僕も以前コメント欄で、砂糖の摂取でカルシウム排泄が増えるという話を聞いて機序を調べたことがあったので、この記事は大変興味深く読みました。それと同時に、記事のコメント欄で紹介されている”砂糖有害説”の、おそらくは中学校の授業案もまた、興味深く感じたのです。

 単純に、”砂糖は有害である”と信じている人が、この授業案・資料を使う。これはわかりやすいです。授業をする先生にしても、または栄養士にしても、このようなことを信じている人は、それなりにいると思うのです。しかし、”砂糖は(用量無関係に)有害である”と信じていなくても、このような案に基づいた授業を、このような発想に基づいた発言をすることは、あるのではないかと思うのです。

手法としての害悪説

 個人としては害悪を信じていなくても、あたかも害悪のあるように伝えるというのは、十分にあり得ると思うのです。それというのも、”栄養教育は行動変容に結びついてこそ意味がある”との考え方があるからです。

 つまるところ、食べるというのは実践的な行動です。たとえば、小学校でよく言われると思うのですが、食事は3色きちんと食べましょう、と教えたとします。ここでいう3色は、いわゆる3つの食品群というやつで、黄色が主にエネルギー源となる食品、赤色が主に血や肉や骨になる食品、緑色が主に体の調子を整える食品、です。

 仮に子供たちが、3色食べる重要性と3色それぞれを構成する食品を完璧に理解したとしても、実際に3色食べる食行動を起こさなければ、意味がありません。教える前には、ご飯にふりかけだけだった子供が、教えたあとでも相変わらずご飯にふりかけだけだったとすれば、理解した知識は何の役にも立っていないわけです。教えたあとは、せめてふりかけが納豆になっていたり、さらにおひたしの小鉢がついたりといった風に、実際の食行動に変化が見られて、はじめて効果があったとされるのです。

 これは何も子供に対してだけではなく、大人に対してだって言えることです。減塩の必要性を知識としていかに理解したところで、「でもやっぱり塩っぱいの好きなんだよねー」とマイ食卓塩をドバッと振りかける行動に変化が見られないのであれば、やっぱりその栄養教育は実を結んでいないのです*1

 では、行動変容に結びつけるためにはなにが大切か。一般的には、感情に訴えることだと言われています*2。これはなにも、栄養教育にかぎった話ではないでしょう。

 たとえば、『リスクにあなたは騙される』*3では、人の判断に影響を与える要因についていくつか挙げていますが、その中のひとつに、「実例規則」というものがあります。これは、実例を思いつく容易さが判断に強い影響を与えるというもので、強い感情を抱くと、実例を強くインプットされるとあります。

「実例規則」は最悪の経験から学ぶとき、特に優れている。(トラックが迫っていたり、ナイフを押し付けられたりすると)アーモンドのような形をした脳にある塊である扁桃体が、アドレナリンとコルチゾールなどのホルモンを放出する。(略)扁桃体が一時的に放出を引き起こしたホルモンが記憶機能を向上させるため、反応を引き起こした恐ろしい体験は生々しく刻みこまれ(略)そういった記憶は恐ろしいほど簡単に思い出されるであろう。(p77)

 言葉の生々しさも重要である。ある実験で、キャス・サンスタイン(シカゴ大学法律学の教授で、法律や公共政策の問題に心理学上の洞察をよく応用している)は、あるリスクに保険を掛けるためにどのくらい支払うつもりがあるか学生に尋ねた。一つのグループに対しては、そのリスクが「癌による死」と表現された。もう一つのグループは、そのリスクが癌による死であるということだけでなく、その死は「非常につらく、激しい痛みを伴い、癌が体内組織を徐々に破壊する」と言われた。(p124)

 もちろん後者のグループのほうが保険に多く支払う選択をし、それはリスクが起こる確率を大きく変えた場合よりも大きく、

感情が数字に勝ったのだ。たいていいつもそうなる。(同上)

 したがって、あるものに対する恐怖を語るのは、強く記憶に刻みこむに大変役立ちます。「砂糖は悪だ!」「砂糖は骨を溶かす!」砂糖に対する恐怖を語ることで、砂糖を避ける行動はより起こりやすくなるでしょう。それはことによると、栄養バランスから砂糖のとり過ぎを危惧するだけの人にとっても、対象者に望ましい行動をとらせるという意味で、語る価値のあるものかもしれません。

 また同書では、「良い・悪い規則」というのも挙げられています。これは、なにかに対したときに直感的に抱く「良い」あるいは「悪い」といった感情が、判断に強く影響するというものです。

「このことで死ぬことはありそうか? それは良い感じがする。良いものが人を殺すことはない。だから死ぬことはない、心配するな」(p111)

 日本の言葉に訳せば、「悪い」ほうは、坊主にくけりゃ袈裟まで憎い、というやつでしょう。砂糖の過剰摂取を控えさせたいという思いが、「良い・悪い規則」を逆走して砂糖=悪まで結びついたのか、あるいは教えられる側の感情的一貫性を考慮して「砂糖、ダメ。絶対」になったのかは定かではありませんが、しかし手法として取り入れた砂糖への強い否定感情が、「ダメ。絶対」までたどり着くのは、時間の問題のように思うのです。

 行動変容を起こさなければならない。そのためには、感情に訴えるのがいいらしい。

 このように思考すれば、望ましいとされる行動に向けた体のいい嘘や誇張が紛れ込む余地は、たぶんにあると思うのです。まじめに対象者の行動を変えたい、まじめに栄養教育をしたいと思う人ほど、このような道に行く可能性は高いのではないか、たとえきちんとした栄養学的素養があったとしても——と思うのです。

 安易な恐怖、わかりやすさでではなく、データや論理によって行動が変えられたらいい、それだけの強さを持ったデータや論理を示したい。というのが、ちょっとした理想なのでした。今のところ、はるか彼方にあるんですが。

追記

 もう一度読み返してみたら、どらねこさんの記事も手法としての砂糖有害論を問題にしてたのねー。最初いかにしっかり読んでなかったか、我ながら驚いてしまう。

*1:とはいえ難しいところで、ここが「健康ファシズム」と揶揄される部分かなあとも思うのです。「減塩の大切さはわかった。でも俺は好きに食う」は、十分に許容される態度ではないかとも思いますし、個人的には健康の押し売りは気が引けます。上手い押し売りになれば、押し売り感がなくなるのかもしれませんが。

*2:より正確には、「感情に訴えることだと言われている」と僕が思っている。

*3:リスクにあなたは騙される―「恐怖」を操る論理