塩分過多の近代性
人類が最初に手にした調味料は塩です。調味料というより生命維持に不可欠なミネラルです。(略)乾燥した貝類もタンパク源だけでなく塩の摂取手段として貴重です。東京北区中里貝塚でカキの養殖を行っていた縄文人は、乾燥したカキを塩の摂取源として交易にもちいていたとの推測もあります。
(廣野卓『卑弥呼は何を食べていたか*1』p104)
そういえば、宮本常一も似たようなことを言っていたのを思い出しました。
(かつて、牛とか馬とかが塩を運んだわけだけれども)たとえば、白山の南から西へかけての村々へどのようなルートで塩が入っていたかといいますと、越前(福井県)の勝山から山を越えていくのですから、人の背によらざるをえない。そういうところでは、塩だけ運んだのでは儲けにならないから、塩以外のものを運ぶようになり、それがなんと塩魚であります。
塩魚というのは、魚を食べるというよりも、むしろ塩を食べるということが一つ目の目的であったと考えてよいのです(略)
(宮本常一『塩の道*2』p70)
著者は例として、対馬のヒラマサ、大和山中の塩イワシ、またかつての白く吹くほど塩が振ってあった塩鮭ことを指摘します。
なんとかして塩を得ようとする努力は、塩が貴重なものであったことの裏返しです。
(イザベラ・バードは『日本奥地紀行』のなかで)東北地方の山中の人たちの不潔、きたなさ、吹き出物が多いこと、目の悪いことなどを挙げております。(略)
それにはいろいろの原因が考えられますが、風呂に入ることが少ないということも原因の一つでしょうし、そのほか、いろいろの理由があったと思いますけれども、一つにはやはり、塩分の不足があったのではないかと考えられます。
(『塩の道』p76-77)
このような状態が減ってくるのは、明治38年の塩の専売制が施行されてからではないかと著者は推測しています。
「伝統的な日本食」と言えば塩分過多と決まっていると思っていたのですが、ひょっとしたら、塩分過多になったのも専売制施行以降のことかもしれず、それまではむしろ、塩分の少なさに悩まされていたのかもしれません。