食育の気持ち悪さについて――食の共同体

食の共同体―動員から連帯へ

食の共同体―動員から連帯へ

 たぶん僕は、この本の半分も理解していないんじゃないかと思う。

  • 序章:食の共同体
  • 第一章:悲しみの米食共同体
  • 第二章:台所のナチズム
  • 第三章:喪失の歴史としての有機農業
  • 第四章:安全安心社会における食育の布置

 第二章と第三章については、正直チンプンカンプンだ。第二章について、おそらく台所で主婦の行う行為が国の利益に結びつく、あるいは「国民」統合に結びつくもの、という程度の理解で、それを私的領域からの「動員」と呼んでいるのであろうと思う。ここら辺の理解が甘いから、第四章の食育についての著者の指摘、「動員装置としての食育」についてよくわからないんだ。

 でも、食育の気持ち悪さについてはわが意を得たりの部分が多い。食育は伝統食や郷土色を強調する。でも、そもそも伝統食とはなんなんだ。

基本計画は、日本には「長い年月を経て地域の伝統的な行事や作法と結びついた食文化」があり、そうした「わが国の豊かで多彩な食文化は、世界に誇ることができる」ので「わが国の伝統ある優れた食文化の継承を推進する」必要があると述べている。しかし、「伝統ある優れた食文化」は特定が難しい。老舗の料理が伝統食だというのなら、食育と伝統食とは縁の薄いものだといわざるを得ないだろう。(p218-219)

 たぶん、老舗の料理(これまた、どこの老舗の料理だっていう特定がなければならないと思うけど)を念頭にはおいてないと思う。でも、いつの時点の、どこの料理だとは疑問に思う。その答えの候補としてまず思いつくのが、いわゆる「日本型食生活」である。日本型食生活とは1977年にアメリカのマクバガン報告で、そのころの日本の食生活が心疾患やがんのリスクの低い食生活として指摘されたのを受けて提唱された食生活である。ご飯を主食に、主菜、副菜、副々菜、汁物がつくという一汁三菜の配膳で、たんぱく質、脂質、炭水化物から得るエネルギーが総エネルギーとの比率で、それぞれ12〜15%、20〜25%、55〜65%である。

 だけれども、

だが日本型食生活は、そうした「伝統的」な日本の食生活ではない。あくまでも、一九八〇年頃から一九九〇年代半ばくらいまで広く見られた日本の食生活パターンであり、それがたまたまエネルギーベースでみたPFCの摂取比率が適正比率と近似していたという意味にすぎない。(中略)すでに伝統的な食生活とは縁遠くなっていた一九六〇年にあっても、そのPFC比率は炭水化物過剰、脂質大幅不足という特徴があった。(p217-218

というように、たまたまごく一時期PFCバランスが適正な時期があったというだけで、それ以前は炭水化物過剰の栄養バランスの悪い食生活が日本の「伝統」だったわけだ。

 それなのに、食育は「伝統食」「日本型食生活」を賛美する。

 基本法食育は、食文化の理解についてもう一つ大きな欠陥を持っている。それは伝統的な食文化を美しいもの、すばらしいものとして絶賛し、無批判な受容を迫っていることである。少なくとも、伝統食や郷土料理は、貧しさをいかに乗り越えるかという地域の知恵によって生み出されてきたものが少なくない。長野県の昆虫食をよく知られているが、それは動物性蛋白質を摂取できない食生活ゆえだった。(p221)

 伝統食なんて、僕のわずかな知識を持ってしたって、少なくとも塩分過多の高血圧リスクの高い食べ物だろう。にもかかわらず、伝統食伝統食いうのがわからない。「食育というのは簡単なんです。昔の人が食べていたものを、そのまま受け継げばいいんです」とは、ある食育のセミナーで聞いた言葉だけど、そんな無批判でいいわけないじゃない。

 おまけの昆虫食については、マーヴィン・ハリスの指摘どおり。伝統食が貧しさをいかに乗り越えるかという知恵の集積であるならば、現代の「乱れた」食生活だって精神性において伝統食と同じ方向を向いてると言えるんじゃないか。