一神教から日本の食を考える――@成蹊大学

 成蹊大学の公開講座が面白そうだったので行ってみた。しかしこのタイトルはちょっと偽りありだと思う。「一神教から〜」というよりは、イエスがいかに食卓を変えたか、だ。

 どうやらユダヤ教は不浄なことを嫌う宗教で*1、そのため食に関しても厳しい規則が決まれらている。なにを食べてはいけないとか、なになら食べてもいいとか、そういった食べ物についてはもちろんのこと、誰と食卓はともにしてはいけないとか(不浄な人と一緒に食べると穢れるから)、食卓ではなにを話すか(ユダヤの律法のことを話すんだとか)まで決まっているのだという。

 けれどイエスは、そんなユダヤ教の社会の中で、貧しい人ともに食事をし、罪人とともに食事をし、女性とともに食事をした。これらは不浄の人だから、通常ユダヤ人は一緒に食事をしてはいけない。でもイエスは、むしろそんな人と進んで食卓を囲んだ。そしてその食卓で話すことは、律法ではなくその人の苦しみや喜びであって、食卓をただ食べるだけではなく、そこにいる人たちを無条件で受け入れ、ともに苦しみや喜びを分かち合う場にしたのだという。

 講演した新屋先生は、次のように仰る。

 私たちは、週に何回、各人の苦しんでいる問題、喜んでいる問題について分かち合っているだろうか。食卓で語り合わなくてはいけない、分かち合わなくてはならないことについて、週に何回語り合い、分かち合えただろうか。

 一人暮らしをしていると、誰かとともに食卓を囲うということすらないことが多い。自分の問題も、親しい人の問題も、ともに分かち合えているかというと自信がない。つい先日、家族で久々に食事をすることがあってそこでいろいろ話をして、分かち合う食卓はいいものだなあと思ったからこそ、胸に迫る言葉だった。

 ただ、これについて残念なことが二つある。

 ひとつは、聞きに来ている人のほとんどはお年寄りで、そこに学生がちらほらいる程度であって、一番この言葉を聴いてほしかったであろう、今現在子育てをしている年代の人がほとんどいなかったことだ。

 もうひとつは、講演中で本人も仰っていたけど、そうは言っても会社優先になって時間がとれない社会なのだ。食卓で問題や喜びを分かち合おうにも、特に子どもがいる家庭で、家族そろって食事をするなんていうことは難しいのではないか。週に何回、分かち合えただろうか。個人としてそう思って、これからできるだけ食卓を一緒に囲んで会話をしようと思ったところで、はたしてそれが可能なのか。

 これは講演後の質問で出た話にも通じるんだけど、「家庭において食料の1/6は捨てられている、もったいない」「全世界で八億もの人が飢餓線上で生きているのに、これでいいのか」と仰る。確かにそのとおりだ。でもそんなことは、僕の子どものころからずっと言われてきたことだ。ずっと言われてきて、知識としてはみんなそれなりに知っていることだ。それでも十年二十年と変わらずに*2経過してきたわけだ。

 これら知識と考えは、いかにして実践と結びつくんだろうか。食卓革命と新屋先生は仰ったけれど、やっぱりそこら辺の部分が抜けてるんじゃないかなあと思った。

*1:って、不浄なことを好む宗教があるのかは知らないけど

*2:あるいは、より悪くなって?