「コメ志向」再考——または、ニッポンだって肉を食う!

食文化から社会がわかる! (青弓社ライブラリー)

食文化から社会がわかる! (青弓社ライブラリー)

 さて、先日は第4章「シンボルとしてのスローフード」を見たのですが、本日は第1章「「コメ志向」再考」を見たいと思います。こちらでは日本の米文化の特異性、また、日本における米食と肉食について語られます。

 これによると、一般的に米文化は魚や豚と結びつき、小麦文化は牧畜や遊牧とセットになっているといいます。日本においても、ほかの米文化圏たる東南アジア諸国と同様に、弥生時代に米と豚がセットで入って来ているそうです。かつて日本でも肉食の風習はあって、イノシシ(たぶん豚も入る)や鹿を食べていたそうです。ところがこれが時代を下ると、肉食=穢れの思想が広まって、肉食が忌み嫌われだす。著者はその理由は、稲作にあるといいます。

 毎度おなじみマーヴィン・ハリスさまも仰っていますが、馬や牛などは農作業をする上でとても重要な動物です。それらを食べてしまうことは農業を営む上で大きな打撃となるので、慎まれるというわけです。

 六七五年には、肉食禁止令と誤解されやすい

「莫(まな)」はなかれということですが、(略)「四月の一日より後、九月のみそかより先に梁を置くことまな。かつ牛、馬、犬、猿、鶏の宍を食らうことまな、もってほかのいさめの限りにあらず」という内容の法令です。
(『食文化から社会がわかる!』p31)

という法令が出されて、四月から九月いっぱいまで、牛馬等を殺すことが禁じられます。犬、猿、鶏については、人との近さからという理由を著者はとっていますが、ともかく、稲作期に農耕を行う上で重要な牛馬の殺生が禁じられるわけです。ここで著者は、当時日本でよく食べられていたのはイノシシと鹿なので、この法令は肉食禁止令ではないと強調しています。

 ただ、呪術的な意味合いから、稲作のために肉食を控える思想は、このころにはだいぶ発達していたようです。

 六九一年の持統天皇の記述を見ると(略)長雨でコメが全滅してしまうので、(略)酒や肉を食べずに心静かにしているようにと国家の役人たちにいうわけです。つまり稲作が危ういときには、うまいものを食べないようにすることでコメが実るという信仰があったと考えられます。
(同 p33)

 米は繊細な作物で、ちょっとのことで採れたり採れなくなったりする。食糧供給の大部分を米に依存しているから、米の出来不出来は重要な問題になってきます。そのためなのか、あるいは天皇が米作りを司っていて、その天皇を中心に国づくりが進められていたからか、おそらくは前者だろうと思いますが*1、米は神聖なものとなり、米作りに害をなすもの*2は不浄なものになっていく。

古代律令国家以降、コメは清い食べ物、聖なる食べ物、そして、コメ作りに害をなす肉は穢れた食べ物という価値観ができあがりましたが、その発端になったのが先ほどの肉食禁止令だと考えられます。
(同 p37)

 この思想は時代を下れば下るほど強められて、というのは米中心の社会というのが強固になっていくからなんでしょうけど、それによって有力者に米が多く集まり、下の階層のものほど米が集まらない、という現象が生じます。

こういう下層民はカロリー摂取量が少なくなります。ですから穢れとされた肉を食べるしかありませんでした。
(同 p43)

 今は、というか一昔前には豊かになった象徴たり得た肉食が、この時代においてはむしろ貧しい人の食べ物になっているのが面白い。おそらくはこれによって、より肉食=穢れ思想が強固になっただろうと思います。見ろ、薄汚い下民どもが肉を食っている。なんと穢らわしい!

 それが、

(江戸時代に入ると)いわゆる士農工商があり、その下に「穢多」・「非人」が作られました。身分制度とともに、肉の穢れを中心とした差別も構造化されました。特に「穢多」は肉を扱う人々です。
(同 p46)

となったひとつの要因なんじゃないでしょうか。

 で、実際に、じゃあ江戸時代の上のやつらが肉を食わなかったかといえばそんなことはなくて、

 ところが、実際には肉を食べています。前述した狩猟の神様である諏訪大社では、鹿食免というお札を発行します。この鹿食免お札を目の前において食べたり、鹿食免のお箸で食べると許されるというのです。(略)あるいは薬食いといって、これは薬だからといえば許される、そういう形での抜け道があって、かなり肉を食べています。
(同 p47)

というからちゃっかりしてる。

 つまりは日本は昔は肉を食っていて、米作りが盛んになるにつれて裏に引っ込んだけど裏ではやっぱり食べ続けられていた、ということでしょうか。

 でも米と豚はセットであって、実際に日本でも弥生時代ではセットであったのに、どうしてそれが廃れてしまったのか、どうしてというのはそりゃ穢れだからといわれればそうなんだろうけど、どうして同じく稲作をする東南アジアでは豚食が穢れにならず継続したのに、日本では穢れとされてしまったのか、牛馬食ったら打撃なのはおんなじなのに、という疑問が残ります。

 東南アジアは暖かいから、日本ほど米作りがシビアじゃなかったんでしょうか。

*1:著者はどちらかといえば、前者をとっているように思う。ただ、米信仰が一番根付いたのが米の作りづらい東北だったといっているから、やっぱり単に、貴重な上に出来不出来によって生き死にが左右されてしまう作物だからこその、神聖視なんじゃないかなあ。

*2:もっとも、実質的な意味で肉食が稲作に害をなすのは、農耕に関わる牛馬を食べる時だけだと思うけどね。あとは精神的な意味合いだけで。