リスクコミュニケーションが腑に落ちた

リスク理論入門―どれだけ安全なら充分なのか

リスク理論入門―どれだけ安全なら充分なのか

 いろいろと素晴らしい本だと思うのですが、わたくしにとってなにが一番素晴らしかったかと言えば、この本を読んで、ようやくリスクコミュニケーションの何たるかがわかったということです。

 栄養学の周辺には食品安全なんてのがありますので、リスクコミュニケーションという言葉は、始めて接した言葉ではありません。食品についてのリスクをコントロールするプロセスにはリスクアセスメント、リスクマネジメント、リスクコミュニケーションがあって、この3つをあわせてリスクアナリシスと言います、特に昨今、リスクコミュニケーションの重要性が高まっています、なんて文章くらい、読んだことがありました。

 食品の安全性に関するリスクアナリシスとは、ある集団が特定の有害事象にさらされる可能性がある場合に、その状況をコントロールするプロセスをさす。リスクアナリシスとは、リスク評価、リスク管理、リスクコミュニケーションの3つの要素からなるが(略)相互に作用し合っている。
(『健康・栄養食品アドバイザリースタッフ・テキストブック』p218)

 リスクコミュニケーションの目的は、「食品に含まれるハザードとこれに関する情報や意見を効果的に伝えることが、食品安全管理の不可欠な要素であり、これには国際機関、政府、業界、消費者その他の関係者の参加が必要であり、食品安全におけるリスクコミュニケーションは今後、食品安全における重要な位置を占める」とされた。
(同 p229)

なんて具合です。

 しかしながら、この本を読むと、それまでのわたくしがしていたリスクコミュニケーション理解は、まったく間違っていたのだということがわかります。

 たとえば以前、「農薬はどうやら発がん原因として重要視されていないらしい」ということを書いて、専門家は農薬の発がんリスクについてまったく重要視していないと記しています。わたくし自身が発した二次情報はともかく、専門家は農薬の発がんリスクを重要視していないという一次情報は、非専門家に各要素の発がんリスクを知らせるという意味で、リスクコミュニケーションだろうと思っていました。

 もちろん、広義にはリスクコミュニケーションなんだろうとは思います。しかしこの種のものはリスクメッセージであって、一方的な情報に分類されて、おそらく現在重要性が高まっていると言われるところの「リスクコミュニケーション」ではないのです。リスクコミュニケーションとはもっとこみいった、専門家と非専門家による異文化交流がその本質なのです。

専門家、非専門家を教育しようとする歴史

 上記の「農薬は〜」の例でもわかるように、しばしば専門家と非専門家は、リスクに対する考え方が違います。このとき専門家は、非専門家の過剰なリスク認識に対して、いえ添加物や農薬は動物実験によってその毒性が調べられ、それをもとに人ではどの程度まで摂取しても問題ないかが決められて*1、さらに実際にどの程度摂取するかを調査して、それらを踏まえて使用基準値を定めています、ですから、リスクは極めて低いんですと言うでしょう。付け加えれば、実際に使用している量は基準値の数分の1程度ですし、実際に健康被害の報告もありません*2、日常的に普通に摂取する分にはリスクは極めて低いです、というかもしれません。

 でも、それらは非専門家には伝わらない。言葉としてはともかく、意味はまるで伝わらない。

 どうしてなんだと専門家は怪しみます。そうか、元データを見てないからかと、今度は元データを提出します。ほら、本当にこの数値で間違いないし、これ以下の数値では毒性は出てないでしょ。

 非専門家はこう言います。なにそれ? 意味わかんない。

 そこで専門家は説明します。いやだからNOAELっていうのはね、その物質を与えた群と与えてない群でがんとかその他よくないことの発生率が有意に変わらない最大用量でね、ADIっていうのはそれを不確実係数で除した値で、だから、NOAELよりだいぶ小さな値になってるでしょ。TD50っていうのはね・・・*3

 非専門家はこう言います。んなこと知ったことか。俺らはそんなの聞きたいわけじゃない。

 専門家は一旦は途方に暮れて、それでもめげずにこう言います。そうだ、きっとこう言えばわかりやすい。この物質*4によるリスクは、スプーン40杯分のピーナッツバターを食べるのと等しくて、X線の検査を1回受けるのとも等しくて、デンバーで2ヶ月過ごすのと等しくて、ワインを1/2リットル飲んだり、タバコを1.4本吸ったり、喫煙者と2ヶ月同居するのと等しいんだ*5。ワイン1/2リットルくらい飲むし、タバコも吸ってるでしょ。なら同じリスクのこの物質はこの量許容できるでしょ。

 非専門家はこう言います。なんか都合のいいのと比べてないか? うさんくさい!

 専門家はこう言います。じゃあこう言ったらいいのかな。これを使うとすごく便利になって、保存期間が12週伸びるんだよ*6。リスク比べて、得るものは多いでしょ。

 非専門家はこう言います。でもお前、リスクの専門家かもしれないけど、ベネフィットの専門家じゃないよね。

 リスクに関する専門家と非専門家の格闘は、おおむねそのようなものであったそうです。

 専門家やリスクの管理者は、なぜ一般の人々が「合理的」な行動を取らないのかに頭を悩ませた。そして、様々な手段による説得を試みたのである。たとえば、リスク判断の元になった詳細な資料を公開した。(略)だが、詳細なデータや理論は非専門家には理解されず、そのわかりにくさがかえって不信感を招く結果となった。またあるときは、新しいリスクと日常的なリスクを比較して見せた。あるいは、リスクに比べて得られる便益の大きさを示し、その意思決定が社会にどれだけのメリットがあるかを説明しようとした。だが、その判断は信用されず、それどころか、専門家そのものが信用を失う結果を招いてしまったのである。
(『リスク理論入門』p111)

 フィスコフは、リスク管理者のたどったこのようなプロセスを、以下のように記述している。
1.正しい数値の把握:Get the number right
 専門家は正しいリスク判断のためには、正しい数値が重要であると考えた。
 →専門家によるリスク判断は信用されなかった。
2.情報の提供:Tell them the number
 リスク情報やデータを公開した。
 →データの意味は理解されなかった。
3.数値の説明:Explain what we mean by the number
 情報が何を意味するのかを説明した。
 →それは人々が求めている情報ではなかった。
4.すでに受け入れているリスクとの比較:Show them that they've accepted similar risk in the past
 新しいリスクを受け入れられているリスクと比較して、新しいリスクが受け入れ可能であることを示そうとした。
 →比較対象のリスクが恣意的であるという反発をまねき、信用をおとした。
5.リスクと便益との比較:Show them that it's a good deal
 リスクとベネフィットを比較して、リスクを受け入れることがよい取引であることを示そうとした。
 →リスクの専門家は同時にベネフィットの専門家ではない。
(同 p111-112)

 専門家がいくら説明しても非専門家には理解されず、不信感のみが募る。そのような不信の時代を経て、専門家はあることに気づきます。ひょっとしたら、これは、「リスク」の考え方自体が違うのではないかと。

専門家の「リスク」と非専門家の「リスク」

 専門家にとってリスクとは、望ましくない事象にその事象の発生する確率を乗じたもので、科学的に数量化することのできるものです。先ほど挙げた例を持ち出せば、ピーナッツバターをスプーン40杯食べると、100万人に1人の割合でアフラトキシンによるガンで死亡するリスクがある、というような具合です。

 しかしながら、研究によれば非専門家はそのような認識はしていないと言います。

アメリカの社会心理学者スロービックの研究で)被験者は「リスクの大きさ」を聞かれたときと、「死亡率の大きさ」を聞かれたときでは別の答えを返すという。
(同 p81)

 専門家は、様々なエンドポイントを設けてリスクを定義するけれども、一般的に死亡率の大きさでもってリスクの代表値とすることに、それほど違和感がないそうです。環境リスク学のBSEの計算でもそうでした。BSEによって変異型クロイツフェルトヤコブ病に感染して「死亡」する人がどの程度かを見ていました。もちろんそれによって比較すればとの断り書きはありますし、進行すれば死に至る病を見るのに、死亡数や死亡率で比較するのは、まあ当然かなという気もします。しかし、死をエンドポイントとして比較すれば、たとえばクロイツフェルトヤコブ病が発生して死に至までの状況、苦しみ、社会的活動からの阻害など、それによってもたらされる様々な要因が欠落してしまいます。ここに、専門家と非専門家の溝のひとつがあるのではないか、というのです。

 また非専門家は、なにもまったくの無秩序にリスクを認知しているわけではないみたいなのです。同じくスロービックの研究では、様々な危険因子を挙げてその危険因子を「新しいかどうか」「恐ろしい(コントロールできない、一度に多くの人が巻き込まれる、の意)と思うかどうか」などについて、「そう思う」「大変そう思う」等評価することを求めたそうです。すると、非専門家である被験者が大きなリスクがあると見積もるのは、

  • 未知で、かつ、恐ろしいリスク

で、逆に小さなリスクであると見積もるのは、

  • 既知で、かつ、恐ろしくないリスク

であったと言います。

(非専門家がリスクを評価するときに)それなりの法則があるということは、専門家とは別の指標で合理的な評価をしていると考えることもできるのである。
(同 p87)

拡大されたリスク

 リスクにはそのリスクそのものだけではなく、リスクから派生するものもあります。

 文中ではダイオキシン騒動の例が挙げられていますが、ダイオキシン類特別対策措置法で実施されたダイオキシン類の削減費用は、1gあたりだいたい1億円であったそうです。専門家のいう「リスク」で比較すると、これと同様の発がんリスクを減らす対策をベンゼン削減で行えば、ダイオキシン対策で行う場合の1/200で済んだそうです。

 同じだけガンのリスクを削減するのに、ダイオキシン対策では1億円の費用がかかり、ベンゼン対策では50万円の費用がかかる。どう考えても、ダイオキシン対策ではなくベンゼン対策で削減したほうが効率的で、費用の有効活用だろうと思います。

 では、ダイオキシン対策に大きな費用を投じたのはまったくの不合理だったのかというと、これがそう単純に切り捨てられるわけではないと言います。ダイオキシンによる健康被害のみに対する費用であれば不合理であるかもしれないけれど、あそこのほうれん草はダイオキシンに汚染されている、危ないとの風評被害で売れなくなるリスクが派生してくるからです。

ダイオキシンによる健康被害という)コアとなるリスクだけを「リスク」だと考えれば、古いゴミ焼却場の存在はそれほど大きなリスク要因ではないということになろう。だがリスクは伝達や認知を通じて拡大される。そして副次的なリスクも含めたリスク、すなわち拡大されたリスクこそリスクだと考えるならば、コアだけで評価されたゴミ焼却場のリスクは過小であるということになろう。
(同 p99-101)

 例をもっと今日に近づければ、BSE対策が挙げられるでしょうか。BSEによる健康被害以前見たようにかなり低く、日本では300年に1人死亡する程度です。これに巨額の費用をかけて対策するのは、非効率だと言っていいでしょう。もっと安い費用で効率的にリスクを削減できる危険が、おそらくはたくさんあることだろう思います。

 しかしながら、それはBSEによる健康被害という、コアのリスクのみを評価したものです。BSE風評被害から牛肉が売れなくなる経済的被害まで含めた拡大されたリスクを考えると、一概に非効率だ不合理だとは言えなくなるわけです。

 そして、このような風評被害だって、不合理とはいえないと言います。なぜなら、どんなに小さなリスクであったとしても、同じコストで提供されるのであれば、人はリスクの小さいほうを選ぶ。リスクはなにか利益を得るための引き換えに取るものであって、進んでボランティアでリスクを引き受ける人なんていないからです。

そこで、リスクコミュニケーションなのです。

 以上見て来たように、専門家の「リスク」と非専門家の「リスク」は異なっていて、しかし異なってはいるものの、非専門家の「リスク」も合理的な判断だというわけです。専門家の「リスク」で評価して対策を行えば、確かにコアとなるリスクについては、効率的な対策が下せそうです。しかし、大多数の非専門家の意見を無視して少数の専門家の判断のみで事を運んでいいものか、合理的である非専門家「リスク」判断を無視していいものか。このようなことが問われるようになってきたわけです。

 リスクコミュニケーションとは、異なる「リスク」評価を持つ専門家と非専門家が、協同で同一の問題にあたるための手段です。それは専門家が数値を挙げて、数値の意味を教えるような一方的な教育なのではなくて、専門家の側も非専門家の「リスク」を学んでいく。そのような過程を経ることで、専門家の側の「リスク」観も変化する。

 専門家と一般の人々のリスク評価は異なっている。それはどちらかが一方的に正しいわけではなく、双方がコミュニケーションを通して学んでいかなければならないものなのである。リスク理論は、「リスク」をなんらかの形で数量化することによって、双方が何によってリスクを評価しているのかを明らかにする。このことによって、人々がなぜある政策に合意できないのか、どこが食い違っているのかが明確になり、建設的なコミュニケーションを可能にするのである。
(同 P88)

 リスクコミュニケーションは社会的な学習の機会を提供する。ここで「学習」とは、リスクに関する知識の習得ではなく、自分の知識や考え方が様々な前提の上で成り立っている暫定的なものであることの認識や、お互いの考え方の暗黙の背景や独自の合理性を知ることなどである。このようなプロセスを通じて、対立する、あるいは政治的に異なる立場の参加者同士は、お互いをより深く理解し、その限界を認識することができるだろう。
(同 p122)

 したがって、リスクコミュニケーションは非専門家を賢くするためや効率的な対策が実行できるようにするためのものではなく、異文化交流がその本質なのです。

 わたくしは専門家と非専門家がコミュニケートして、その過程でもって非専門家を教育していくものなのかと誤解しておりました。以前読んだ本にあった「リスクコミュニケーションはお互いの信頼の向上を持って成功とする」の意味が、ここに来てようやく理解できたのでした。

*1:種差と個体差でそれぞれ10倍見積もって、動物実験で得られた毒性がでない摂取量(NOAEL)を10×10で割ったもの。最近では毒物への代謝や排泄についてと、感受性についてそれぞれ数値化したトキシコキネティクスとトキシコダイナミクスというもので不確実係数を算出する、というのもあるらしい。

*2:もしくは、あったとしたらこれこれの摂取量で

*3:きっともっと難しいことをわかりやすく説明してるんでしょう。僕の「専門的知識」はこれでもう限界ですが。

*4:架空のもの。なにか特定のものが念頭にあるわけではない。

*5:『リスク理論入門』p12「100万分の1の死亡リスク」の表より。ピーナッツバターはアフラトキシンによるがん、X線放射線によるがん、デンバー宇宙線によるがん、ワインは肝硬変、タバコはがんと心臓病によるもの。

*6:「これ」も架空なら効果も架空。