主食あれこれ

 以前見た『肉食の思想』*1によれば、ヨーロッパの食事には主食・副食の区別がないとのことでした。牧畜適地で動物との距離が近かったこと、家畜を食らう習慣を持ちながら、それでも集団の協力が必要なパン食を捨てなかったことが、ヨーロッパ思想の土壌を作ったのだと著者はおっしゃいました。

 しかしながら、別の本になるとまた見方も変わります。『国際化時代の食』*2では、「アジアにはだいたい主食の概念がある」「主食は外国にはない言葉で、"staple food"という言葉は日本人が作った」と、『肉食の思想』と共通するような言及をしたあとに、しかしと続けて、別の指摘もしています。

 曰く、外国映画では労働者の弁当に凄く大きなパンがあり、「主食」という言葉はなくても、実際には「主食」はあったのではなかろうか? 欧米の言語が、民衆の事実を見逃しただけではないだろうか?

 言葉がないからその現象がなかった、あるいはその概念がなかったというのは、少々の飛躍があるようにわたくしは思います。たとえば、"umami"というのは欧米にはなかったので、日本語がそのまま英語になった、というような説明がよくなされます。ああ確かに、外国では昆布で出汁とったりしないからなと頷きそうになるのですが、なにもグルタミン酸は昆布のみに存在するのではなく、チーズやトマトにだって豊富にあって、それらは欧米諸国でよく食べられているわけです。また、旨味はなにもグルタミン酸だけではありません。魚介や肉類の「旨味」は、"umami"という言葉を獲得する以前から食していて、彼らの前にも厳然と存在していたと考えられます。

 さらに、『コメの人類学』*3では、逆に言語からパンが主食であることを指摘しています。曰く、「われわれに日々のパンを与えたまえ」のパンは食料一般を指していて、これはまさしく、「ご飯」が主食の米飯と食料一般を指すのと同じことだと言います。また、「ブレッド・ウィナー」は一家の大黒柱を意味するし、「ブレッド・アンド・バターの問題」といえば、日々の生計に直接関わる問題を、パン生地である「ドウ」はお金、権力、地位のシンボルであるそうです。フランスではパンを意味するpainだけで辞書の三段が埋まっていると言い、これらのことから、パンは欧米人にとって大切な食材であることが見て取れ、日本人にとってのコメと同じく、主食であるのだと言います。

 鯖田さん*4危うしっ! と勝手に心配していたのですが、しかし『コメの人類学』で取り扱われている「主食」と『肉食の思想』で指摘している「主食」は、少し別の概念であることにも注意しなくてはなりません。

『肉食の思想』では、ヨーロッパの歴史上の穀物依存度の低さ*5を挙げていることからわかるように量的概念であるのに対して、『コメの人類学』の主食は、量的概念というよりももっと情緒的な意味合いの強いものです。

 米、パン、稷などの各文化に特有の主食が象徴的に重要な意味を持つのは、それが量的に、すなわち人々の空腹を満たすために重要だからではなく、むしろ、それが、その文化の共食のための食べ物として絶対に欠くべからず存在であるゆえである。
(『コメの人類学』p238)

 ただ、これまたひっくり返すようですが、一方で量的なことを言い出したら日本のコメだって主食なのか、主食だとしてそれはいつからいつまでのことかと、疑問の余地が出てきます。

 同じく『コメの人類学』によれば、コメの重要性が強調されたのは近世になってからで、たとえば中世の租税を見れば、西日本はコメであるものの東日本は絹や綿で、西日本にしてもコメはあくまで税であって、穫れたコメは市場へ出して日常食べていたのは主にコメ以外の穀物であったと言います。また、いろいろ説はあるようですが、日本全国にコメが行き渡ったのはごくごく最近のことで、日本人の大多数がコメを主食としたのは、1939年の食料配給制が行われてからだとの見方もあるようなのです。だとすれば、量的概念でもって、昔からコメが日本人一般の主食であるというのは、やっぱりケチがつくでしょう。

 だからどうしたというわけではないのですが、やっぱり、鯖田さん危うしっ! と思った読書体験なのでした。

*1:肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 (中公文庫)

*2:食の文化フォーラム―国際化時代の食

*3:コメの人類学―日本人の自己認識

*4:『肉食の思想』の著者

*5:たとえば、1614年のジェノヴァ某家で穀物から摂るエネルギーの総摂取エネルギーに対する割合(穀物依存度)は52.7%で、1578年のスペイン遠征軍(陸路)は64.5%、など。