『食事の文明論』の読書メモ2――国家の学としての栄養学

 引き続き『食事の文明論』*1を読んで行きましょう。

 著者は4章の「食事と宗教」において、食に対する宗教による禁欲思想を指摘したあとに、5章の「食事と医学・薬学」で、それが今日では医学や栄養学に取って代わられていると指摘しています。

 宗教による禁欲思想は、わかりやすいと思います。宗教には、食に対するタブーが定められているものが数多くあります。牛を食べてはいけない、豚を食べてはいけない、海や川にいるものでうろこやヒレのないものは食べてはいけない、またはある一定の期間、断食を規定しているものもあります。

 このように宗教が禁欲的であることの理由について、社会的な不平等があるのではないかと、著者は言います。

 大食やぜいたくな食事は、宗教的な罪悪とされてきたのである。宗教の別をこえて、快楽にたいして禁欲的であることが、人間を神に近づける手段であり、快楽を肯定することは人間のなかの獣性を放任する、という見解が、宗教的人間像のなかにはあらわれる。現世において禁欲した代償に、あの世での快楽が約束されるという論理が強調されてきたのである。(p77-78)

宗教は物質を潤沢に配分することによって社会的、経済的に解決することが不可能な、物質的に不平等な社会段階において、欲望の水準を低くおさえ、それを精神の問題に昇華させることによって、秩序を維持してきたのである。(p78)

 この辺りの指摘、マーヴィン・ハリスファンである皆さまがたは、彼の「聖なる雌ウシの起源」*2を思い出すのではないでしょうか。すなわち、「気前のよい首長」として住民に食肉を分配していたバラモンが、やがて住民の食肉に対する欲求を満足させることはできなくなり、結果として食肉は高位身分者のみの特権となる。その後殺生を禁じる諸宗教(ジャイナ教と仏教など)が出てきた、というあの話です。ここにハリスは「奢れる肉食貴族と貧しき非肉食農民」の溝を見るわけですが*3、著者が指摘する構図も同じようなものでしょう。

 さて、そのように食の快楽について禁欲的である宗教なのですが、現代の先進諸国ではその力はとうに弱くなっています。著者は再三に渡り、貧富の差、特に飢餓がある社会では食の快楽はおおっぴらに語られないと言っています。「食物の分配に対する不平等が、快楽としての食事にうしろめたさを感じ」させるからです。

 逆に現代の先進諸国では、そのような飢餓はほとんど存在しません。社会的な不平等も、まああるのでしょうが経済的な発展によって物質的な欲望を野放しにしてもある程度成り立つような社会となり、宗教によって欲望の水準を低く抑える必要がなくなったというわけです*4

 そのような社会において、宗教の代わりに食の快楽にたいして抑制をかけているのが、医学と栄養学だといいます。

 現代の世界のなかで、飢えを知らない豊かな側の社会において、経済的理由以外に人びとの食事の快楽追求の欲望を、もっとも規制しているのは医学あるいは栄養学である。食べすぎによる肥満、糖尿病(略)いわば豊かさの結果による不健康にたいする恐れが、人びとの食事にたいする欲望に歯止めをかけているのである。(p94)

 そして、栄養学徒としてはあまり楽しい話ではないのですが、近代西洋における医学と栄養学の歴史を語ります。両者は、国家に奉仕する、国家の力となる形で発展して来たのです。

近代医学が国家体制と結合することによって、医学が行政にくみこまれて、予防医学、公衆衛生などの、社会そのものの健康管理にまで、責任を負うべきものとなったのである。(p95)

 ごくごく一般の皆さまにどの程度馴染みがあるかは知りませんが、健康増進法とか、健康日本21とかいうものがあります。これらは、健康の増進を図るための環境づくりのための法律や、具体的な数値目標であったりします*5。健康でいたいし、健康でいるための環境を整えてくれるのは嬉しい*6んですけど、それでもこれらに感じるイヤな感じは、「国家が社会そのものの健康管理にまで責任を負っている」姿にあります。

 たとえば、健康増進法には第2条に「国民の責務」という項目があって、

国民は、健康な生活習慣の重要性に対する関心と理解を深め、生涯にわたって、自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければならない。

健康増進法

と記されています。

 できるだけ健康でありたいなとは思うけど、「努めなければならない」と言われるのはどうなのだろうと思いますし、健康日本21の数値目標に対して「まだまだ目標に達していません」と言われると、「そもそもあんたがたが勝手に目標決めたんじゃないの?」と言いたくなってしまうのです。

 でも、近代の医学や栄養学は、出自からしてそのように動員的であるのです。そして著者は、「健康」を振りかざして食の快楽を抑制する医学・栄養学に、先の宗教と同じ構図を見出します。

(宗教は現世の不平等を精神の問題に昇華して禁欲を説いたが)個人の生活態度に原因する症状で、現代の医術や薬によっては容易に治療できないものについては、医者は節制の精神を説くのである。食いすぎ、飲みすぎなどの不節制は心がけの問題であり、医学の問題ではないとするのである。禁欲することが神の国へのパスポートを得る手段であるとされたのとおなじく、禁欲によって健康は維持されるのであり、不健康や病気は患者の心がけが悪いために与えられた懲罰である、というのである。(p97)

 「懲罰医学」と著者は素敵な言葉でこの状況を言い表します。ところどころ、それはさすがに誇張でしょうと言いたくなりますが、しかし大筋においては同意してしまいます。

 以前食育から道徳を分離して欲しいと書いたけれども、栄養学からして道徳になりがちであって、動員的であるのだという指摘を受けて、これは心にとどめて「懲罰栄養学」にならないようにようにしなければ、と思うのでした。

そうはいっても

 国家が健康の責任を負うことは、必要だと思うのです。まるっきり放っておかれて、病院かかるときも全額自費でかかってねと言われたのでは、社会的にも貧富の差で医療格差が大きくなりますし、個人的にも貧乏人に属するわたくしはひどくつらい状況に落ち込みます。

 国が医療費の面倒を多少なりとも見るのであれば、大きく膨れ上がった医療費の負担を軽減するために個人の健康に口を出してくるのも、納税者としては当然だと思いますし、受益者としてもまあ止むなしかなとは思います。

 でもちょっと気持ち悪いよね、くらいの憎まれ口は叩きたい。

*1:食事の文明論 (中公新書 (640))

*2:『ヒトはなぜヒトを食べたか』(ヒトはなぜヒトを食べたか―生態人類学から見た文化の起源 (ハヤカワ文庫―ハヤカワ・ノンフィクション文庫))12章

*3:もちろん文化唯物論者の彼ですから、そのあとコスト・ベネフィット計算に移るわけですが。

*4:むしろ、欲望の水準を高く保つことが望まれていそうだしね。クルマ離れ? いかんいかん、若者よもっとクルマを欲しがれ! みたいに。

*5:漠然とぼかしているのは、実のところよく知らないということです。

*6:受動喫煙の防止とかね! 吸いたくないし。