『食事の文明論』の読書メモ3――私事としての食事と食卓革命

 さらに引き続いて『食事の文明論』*1です。第7章の「食卓での分配法」で、著者は日本の食卓の変遷を辿ります。

 平安時代末期の書物に、食事をする庶民の絵が描かれているとあります。その絵では、各人の前にお盆が置かれ、お盆の上にご飯のお椀と汁椀、それから小皿が3つあるそうです。平安末期にはすでに各人に各人用に盛りつけられた食事を配食する形態になっていた、というわけです。これが江戸時代の銘々膳まで続きます。

 銘々膳では、個人が必要とする分量を盛りつけることが可能です。しかし盛り付けは必要量のみによって決まるのではなく、個人の家庭内での地位などによっても影響を受けたそうです。

 麦飯を茶碗に盛るとき、まず、ムギの部分をとりのけて白い飯の部分を家長と長男に盛り、そのあとシャモジでムギとコメをかき混ぜてしまい、次男以下の家族は麦飯を食べさせられたり、家長、長男にだけ魚のオカズがつけられるといった分配がなされたのである。(p129)

 麦飯の部分はともかく、家長や長男のおかずが一品多いなどは、体験されている方も多いのではないでしょうか。かくいう、銘々膳は遠くなりにけりの昭和育ちのわたくしにしても、子ども時分の食事風景においては父親だけお刺身がついたり、なにがついたりといった光景をよく覚えているのです*2

 おかずだけではありません。座る位置も、家長長男だと畳敷きなのに次男以下は板の間だったり、家長長男であれば準備片付け全てやってもらえるのに次男以下はそれらを自ら行うなど、食卓は不平等なものであったといいます。

銘々膳の食事の場は、かつての日本人の家族内秩序を象徴するものであった。このような食事の場は、食べることを楽しむというよりは、家族内での公的行事という性格が強かった。その行事の場は、子どものしつけの場であり、食物の楽しみを教えるというよりは禁欲的な節制や行事作法といったふるまいかたについて、家庭外へ出たときに「恥をかかないように」叩きこむことがなされたのである。(同上)

 ここでもまた、幼き日の食事風景が浮かびます。しかめつらの父親が座り、わたくしたちは静かにご飯を食べます。これが如実に示されるのは、父親の帰りが多少なりとも遅くなった夕飯です。それまで母親とわたくし、それから兄弟姉妹で楽しく談笑しながら食べていたところに、父親が返ってくる。途端に食卓は緊張する。母親が立ち上がり、父親を出迎えます。父親は疲れて帰ってきているのでしょう、リビングに入ると大きく息を吐きます。わたくしはほかの兄弟姉妹と一緒に、母親も不在となった食卓で、父親が着替えるときの呼吸、衣擦れの音に耳をそばだてながら、黙々と箸を動かすのでした。

 もっとも、これはある日の夕飯、それも極度に緊張した夕飯を更に誇張した記憶であって、毎日が父親の帰宅と共に静まり返ったわけではありません。父親も楽しく会話に加わることもありました。しかしながら、食卓では「静かに食べなさい」と言われて育った世代ですので、著者の描く銘々膳の食事風景が、父親の延長線上に浮かび上がるのは難しくありません。

 さて、このような食事風景が変わったのは、鍋物料理、あるいは卓袱料理の普及であるといいます。

 食事に参加したものが一つの鍋をかこんでつつきあう鍋物料理というものは、明治時代になって流行する。(略)手軽に誰でも作れる料理であるということばかりではなく、銘々膳の食事の場の秩序を破る食べかたであるおもしろさが、家から離れての自由を楽しむ学生たちに受けたのではないか。(p134)

 一方の卓袱料理とは、わたくしはただただ管理栄養士のお勉強に出てきて字面だけで知っていたのですが、なにやら長崎の名物料理なのですか? お勉強の記憶では、中国料理とオランダ料理の融合とか言っていましたが、この絵を見るとわかりやすい。料理の内容にオランダの影響が見られるのかもしれませんが、写真で見るかぎり、ちゃぶ台で中華料理屋さんごっこをしているような風景です*3。現代のわたくしどもには、昭和30年代の風景みたいな感じで見慣れていますが、しかし日本で長らく続いていた個人個人に盛り付ける食卓ではありません。各人が大皿から好きなように取る、これは銘々膳にはなかったあり方です。

 18世紀の医者で文人の橘南谿は、卓袱料理はたまに食べる分には楽しいけれども「比事常に成りてはいとみだりがわしき事なるべし」と抵抗感を示しているそうです。

 そして現代、われわれはダイニング・テーブルで「いとみだりがわしき」食事をするようになっている。
 食事は家族内の公的行事という性格をすっかりなくしてしまい、家族水入らずの私事であるという観念が強くなった。私事であるがゆえに、食事でのふるまいかたに関する秩序は、以前とくらべものにならぬほど、ゆるやかなものとなっている。(p136)

 公的行事としての食事が衰え、もっぱら私事としての食事になっている。であるから、食卓でのふるまい方はうるさく言われないし、厳しくしつけられもしない。

 それはそれで、ひとつのマイナス要素も含んでいるのでしょう。しかしゆるやかであるからこその楽しい食事であるならば、わたくしは公的行事の厳しさよりも、私事としての楽しさを取りたいです。

話は少し飛ぶのだけれど

 以前、一神教から日本の食を考えるという講演を聞きに行ったことがあります。そこで講演者が語っていたことは、キリストによる食卓革命です。曰く、それまでユダヤ教の食卓で語られていたのは、律法であった。ユダヤの戒律のことについて話すのが専らで、子どもたちは食卓でユダヤ教えを学んだ。しかしキリストは、そんな食卓を変えた。ユダヤの戒律では一緒に食事をしてはいけない決まりになっている、罪人や女性と、進んで食卓を囲んだ。そして食卓では、律法ではなく、その人の喜びや悲しみを語り合うこととした。

 そして講演者はこう語ったのです。

 私たちは、週に何回、各人の苦しんでいる問題、喜んでいる問題について分かち合っているだろうか。食卓で語り合わなくてはいけない、分かち合わなくてはならないことについて、週に何回語り合い、分かち合えただろうか。

 これもまた、食卓の私事化に通じるものではないでしょうか。食卓で律法が語られる、これはまさしく公的行事です。節制やふるまいを説教し、しつけを重んじたかつての日本の食卓も、そういう意味では律法を語る場であったわけです。

 それが現代は、「楽しみ」志向の食卓になっている。ただ、それがうまく行っているように見えないから、うまく行かせるために、もっと食卓で語り合おうよと講演者は言うのです。このように見れば、講演者のいう「食卓革命」は、ちゃぶ台の登場からずっと静かに進行していて、今なお途上であるのだ、といえるでしょう。

 だからどうしたというわけではないのですが、あの時聞いた食卓革命が、少しわかった気になったのです。

*1:食事の文明論 (中公新書 (640))

*2:もっとも、これはお酒を飲むことにも関係をしているかもしれません。お酒のつまみとしてお刺身がある、ほかの料理は子どもや妻が食べるのと一緒、だから一品多くなる。しかし、これをしてもやはり家庭内の何らかの原理の反映といって差し支えないでしょう。

*3:「卓袱=チャブ」なので似ていてもおかしくはないのですが、ことによると、最初はオランダ舶来のテーブルで、中華料理ごっこをしたのでしょうか。