『「食育」批判序説』を頑張って読んだのさ。

 さて、本日は先日も取り上げた『「食育」批判序説』*1につきまして、内容に踏み込んで見ていきたいと思います。

 書いているうちにとても長くなってしまったので、最初に構成を記しておきましょう。

  • 「朝ごはん」運動への批判
    • ケトン体研究詳細
    • 断食療法
    • それらを持ちだしたことへの疑問
  • 著者の言う、それから身土不二の「科学」
    • ようやくわかった「身土不二の原則」
    • 著者の「科学」と現代栄養学の「科学」
  • むすび

 すべて読むとかなり時間がかかる上に疲れますので、時間と体力に不安のあるかたは「著者の言う、それから身土不二の「科学」」を読まれると、それなりに面白いんじゃないかなあ、と思います。特に「身土不二」っておかしくないあれ、というかたにはいいんじゃないかと。

 それでも長いと思う人は「ようやくわかった「身土不二の原則」」だけでも読んでいただけると大変嬉しいです。

「朝ごはん」運動への批判

 著者はまず第1章で、「朝ごはん」運動を批判します。朝ごはん運動とはご存知のかたもおられるとは思いますが、「早寝早起き朝ごはん」をスローガンにしたあの運動のことです。そのようにして生活リズムを整えようというのが主眼であると理解しておりますが、そのなかで取り上げられている「朝ごはん」は、食育分野におきましても極めて重要な位置を占めています。

 「朝ごはん」運動推進者は言います。脳はすべてのエネルギーをブドウ糖に依存する、君が朝目を覚ました時、すでに最後の食事から10時間12時間は経っている。肝臓に蓄えられているグリコーゲンは枯渇に近い。朝起きたときに君が朝食を食べなければ、午前中脳はエネルギーなしで過ごさなくてはならない! 頭はボーっとする、集中できない、イライラする。そんな状態で勉強できるのか? ほら、朝食を食べていない子のテストの点数は、食べている子よりもこんなに低いんだぞ。朝食は食べなきゃダメだぞ。

 著者は言います。そんなことあるわけない。ケトン体っていう脂肪酸からの代謝物質があって、それも脳のエネルギー源となるじゃないか、と。そして、ガイトンという人の『人体生理学』*2という本から引用します。

 糖利用の低下はケトーシスretosisにつながる。ケトーシスは第46章で述べたようにケトン体産生が非常に増加した状態を意味する。幸い、ケトン体は糖のように血液脳関門を通り脳細胞でエネルギー源として利用される。従ってこの時、脳で使われるエネルギーの約2/3はこれらケトン体、主としてβ−ハイドロキシプチレートに由来する。これら一連の変化は、少なくとも一部は体内の貯蔵たんぱくの保存につながる[ガイトン 1982:844](p30)

 まさかこの事実を、栄養学の教科書も書くような連中が知らないわけはない。このことを隠して、脳はブドウ糖のみをエネルギー源とする、だから朝食を食べないとエネルギーが枯渇してしまうのだというのは、不誠実であると言うのです。

(「朝ごはん」運動推進者による、脳はブドウ糖のみをエネルギー源とするという説明は)人体の生体エネルギー機構において脂質代謝が脳に対して有する意義を意図的に無視し、糖質代謝のみで説明する極めて恣意的な論と言わざるをえない。(略)脳の唯一の燃料はブドウ糖であるという見方に変革を迫る研究成果が公表されたのは、すでに四〇年前の話である。その後おおくの追試を受け、とうに生化学「教科書」にも書かれている事柄なのに、それを無視した議論は誠実さを欠く。(p31)

 もっともな批判だと思います。わたくしはこの事についてそれなりの好意をもって捉えておりますので、おそらくは専門外の人に説明する際に、わかりやすく話を単純化させたのだろうと思っています。しかしながら、このような「不誠実」な態度が、人びとに不信を募らせることとなり、ひいてはそれら不信を抱いた人びとをトンデモさんたちに掠め取られる結果になるのではないかとも危惧します*3

 ここで著者は、自らの主張を補強する2つの論証を挙げています。

1. ケトン体研究詳細

 1つは、ケトン体研究の詳細です。ラダーマンという人らの研究による長期飢餓状態(40日間も!)における5段階の代謝ステージという図がそれなのですが、1日の間でも飢餓が*4長期になるにしたがって、グルコースをエネルギー源とする臓器が減っていくのがわかります。2日目以降になると脳のエネルギー源としてケトン体が利用され始め、24日過ぎに、脳の主たるエネルギー源としての役割が、グルコースからケトン体に変わっています。

 ささやかなことですが、以前見たハーパー様*5によれば、ケトン体は脳のエネルギーの約20%程度までをまかなうことができるはずでした。それがここでは、脳の主たるエネルギー源となるとか、先ほどの引用箇所では脳のエネルギーの約2/3をまかなうとか、わたくしは少々驚きと混乱を持ってこれを読むことになりました。

 そしてもう1つが、わたくしにさらなる驚きをもたらします。断食療法です。

2. 断食療法

 ここで著者は、甲田光雄という人が行なっている、断食療法*6を持ってきます。わたくしはこの甲田光雄というかたを初めて知ったのですが、1,2年の間で11日間の本断食、12日間の本断食、14日間の本断食と3回の断食を経験し、ついには完全朝食抜きの生活法を実践し始めたかただとあります。朝食抜きだけならまあなんてこともない*7とも思いがちですが、

最近まで二〇数年は昼食をも抜いた一日一食の生活を続けていた。(p37)

と言いますし、さらには1日2食食べるときも、普通の食事を食べるわけではありません。

(甲田光雄の食事内容を写した写真があって)上左から、生ゴマ、生ピーナッツ、大根おろし、山の芋おろし、中央は柿茶。下左から青どろ(青野菜をミキサーで砕いたもの)、塩、玄米粉、人参おろし、1年中この食事を昼、晩と食べる。朝食は取らない。1日のカロリーはわずか1000キロカロリーである。(p39)

 この食事でもって本人は元気であって、何万人もの病者の治療に用いたとあります。治療の実際は知りませんし、わたくしごときの手に負える相手ではなさそうですので深入りしませんが、しかし驚きの食事内容であるとの感想には、大部分のかたご同意いただけるかと思います。

著者がこの2つを持ちだした理由はなにか?

 わたくしには不思議でなりませんでした。

 ケトン体が実際に脳のエネルギーとして使用されるのだという事実は、まあ示す必要のあったことでしょう。ですが、その詳細に立ち入って、40日間もの長期に渡る飢餓実験を語る必要などなければ、甲田光雄の驚きの食生活など語る必要もないのです。

 思い出していただきたいのですが、批判する相手は、たかだか「朝食」なのです。抜いたところで、せいぜい16〜18時間です。長期絶食でもなければ、11日間の絶食でもない。1日1食か2食の青どろ主体の食事なんか、語る必要もないのです。ましてや、青どろ主体の食事内容なんて、怪しいと思われるだけ、見せるだけ損なのです。

 にもかかわらず、著者はこれを語っている。なぜなんだろう?

著者のいう、それから身土不二の「科学」について

 著者は2章で、「階層原理」について語ります。階層原理とは、つまるところ構成する要素によって、自ずと語ることのできる対象・範囲が限定される、ということだととりあえずわたくしは理解致しました。栄養素を要素とする理論であれば、対象は細胞や組織などになり、料理を要素とする理論においては、個人が対象のメインに入る、食糧を要素とする理論では、国や地域、大都市などが入るであろうといいます。ですので、

 栄養生理学や栄養生化学において、分子次元を問題とすることは当然であるが、生活者の日常生活次元の食べ物・食事を議論するさい、それを用いた議論は慎重であるべきなのだ。(p115)

となります。

 これは正直なところ、正確な理解が出来ているのか自信がないのですが、たとえば細胞を用いた試験管内実験である成分の有効性が確かめられたとしても、それを即座にヒトに当てはめるのは無理があるでしょう。慎重にならざるをえません。そういうことだろうというのが、わたくしなりの理解です。

 現代栄養学は、この原則を破っている。だから著者は、現在の栄養学を栄養素学であると批判します。ビタミンAがどうした、たんぱく質がどうした、栄養素のことを主に語る。それはそれで、必要な分野もあるだろうけれども、その同じ言葉でもってヒトを対象とした食事を語るのは階層が違う、カテゴリーミスなのだというのです*8

 これもまた、まっとうな批判であると思います。わたくしなども栄養主義の気が多分にあるので、注意しなくてはならないでしょう*9

 そのような現代栄養学に対して、著者の持ちあげる食養は違う、といいます。

 そもそもヒトが何かを食べるとき、それはさまざまなものに規定されます。なにかが収穫されるという自然や環境であったり、そのなにかを食べるという文化であったり、また料理法という文化であったり、そういった大きなものに規定されて、ヒトは食べるものを選択します。これら、自然、環境、文化、さらに歴史まで視野に入れて、論理的に導かれたものが「食養」なのだ、だから「食養」は科学なのだ、というのです。

 また(桜沢如一とか、村井弦斎とかの食養が)現代栄養学の栄養素主義的食品分類・食品群論と比べて特徴的なことは、豊川の指摘した栄養学の四構成要素*10の関連、とくに「食糧」次元の問題を必然として問う視覚を有し、生活次元の「実験」を経て一定の論理のもとに食事の原則を規定している点である。逆にいえば、現代栄養学からのそれは、食品選択の基準として社会・自然との関連が意識されておらず、実験室内の分析・要素主義的な研究をもとに提言されているものであり、論理的逸脱があるといわねばならない。(p141)

 (桜沢の食養は)食概念に実態としての食べ物ならず、関係論的にそれを生み出す自然および社会・文化的環境一切を含むところがおおきな特徴である。かつそれが「人(一般には生命体)を作る」わけであるから、環境−食−生命体の緊密な繋がりに配慮していたということができる。現代栄養学では、食べ物に含まれる化学物質・栄養素等に着目し、その生体内での機能・代謝を実体論的に解明しようとする関心がつよいのにたいして、桜沢においては、環境と生命体とのかかわりを捉えるさいの関係論的関心においてそれを媒介する食が主題化されているのである。(p144)

(略)桜沢のそれ(食養)は<生命の秩序>として食のあり方を一般性において把握し、それに則したものであり、生活次元の論理として評価するとき、現代栄養学と比してはるかに<科学的>であるといえる。(p164)

 ここでもまた、桜沢如一村井弦斎の推薦する食事内容とその是非については立ち入りませんが、しかし1つ指摘しておきたいのは、著者は桜沢らの「自然→食糧→食事」と来る階層移動は認めていて、どころかものすごく評価しているのに、なぜ「栄養素学」の「栄養素→食事」の階層移動には極めて批判的なのか、という点です。階層が異なるものを、安易に当てはめてはならない。それはそのとおりだと思います。そして現代栄養学がそれを行いがちである、個人的には、とくに商品を売る際のセールスやセンセーショナルに取り上げるマスコミにより顕著な傾向だとは思いますが、栄養学もまたその傾向があるのは事実であると思います。そこはより慎重であるべきなのでしょう*11

 しかしながら、階層の移動が全く行われない、というのもおかしな話です。得られる食糧から利用できる食品は決まってくるし、食品によって料理は自ずと制限されるのでしょう。マクロからミクロへの移動は、このように行われて、それを著者は肯定、大いに肯定しています。むしろ、その繋がりを論理的に導くことこそが科学であるのだと。

 であれば、栄養素研究で得られた知見もまた、食事内容に反映されてもおかしくはありません。食事内容によって、求められる食品が変わってくる、それによって、食料生産の内容だって変化する。このように、直接的に当てはめるのは慎重でなければならないけれども、でも相互に影響し合うものなのではないでしょうか。

 でも、著者はミクロからマクロへの適用については否定的です。それにはおそらく、理由があるのです。

ようやくわかった「身土不二の原則」

 身土不二、という言葉があります。これはもともと仏教用語だそうなのですが、桜沢ら「食養家」が食と環境の相互作用を記述した言葉が、「身土不二」です。正しくは「身土不二」ではなく、「身土不二の原則」です。この「原則」があるところが、今回わたくしが本書を読んで、身土不二を理解する上でのポイントではないかと思った部分です。通常この身土不二は、生まれたところ、生活するところの環境で育つ食べ物を食べるのが健康にいいんです、というような教えであるとされています*12。そしてそれを逸脱するところに、病が発生するというわけです。

「『正しい食物』とは、その土地・環境に則した食物のことです」[桜沢 1942/1972:26]「数千キロも遠く離れた風土・環境を身体に取り入れて、故障がおこらなかったら不思議」[同 :36]だという主張である。(p157)

 普通の「現代栄養学」を学ぶものであれば*13、いやそんなこと言っても近くで取れるものばかり食べてたら栄養偏るんじゃないの? ペラグラとか、ヨウ素欠乏とか、そういうの困ってるところもあるんじゃないの? と反応をするんじゃないかと思います。わたくしもそうでした。しかしながら、その反応こそが「身土不二の原則」を理解していない証拠なのです*14

 著者は高橋久仁子の「この発言(身土不二のこと)はもっともらしく情感に訴えるが、風土病の問題などもあり、考え方として危険ではないか?」という発言に対して、理解に苦しむと言っては反論します。

 (生命体は各環境に適応して進化をするが、環境の変化等で被害を被ることもある)事実、生命化された自然は、ある時代、ある種の生命体を絶滅に追いやる歴史を刻んできた。比喩としていえば、「母なる大地」もときに自らが育んできた生命体に牙を剥くわけだ。またある生命体にとって栄養レベルで問題含みの環境状況になれば、当該生命体に何らかの失調状況が訪れるのは当然のことである。(p160)

 仮に失調状態が訪れたとしても、それは「当然のこと」なのです。その上でしかし、と続けて、「生命体は<身土不二>を嫌って地球を離れるわけにはいかない」と言います。いくら悪影響を被っても、その環境を離れるわけにはいかないのだから*15、そこで生きていくしかないじゃないか、というわけです。

 これが、わたくしが理解した「身土不二の原則」の重要な点であり、「原則」の2文字こそがポイントであると考えた所以です。原則であると決めたのだから*16、どういう結果が現れようとも受け入れるしかないのです。

種としての絶滅を免れるときは、そうした過酷な環境に、より適応的な性質(遺伝子)をもった個体が増え、環境問題と生命体適応の落差は縮まる傾向を示すことが想定されるが、そのかん個体次元で見れば不適応的状態を呈することもあり得よう。風土病もそのひとつとして位置づけることができる。(p160)

 もちろん人類も自然環境の変化や自らの放散に伴って、変化する環境としての食対象に対応を迫られたはずである。その段階までに獲得された身体性(生理的特質)に対して、食を介して得られる栄養に過不足がある場合、何らかの失調が生じるのは当然のことである。(p161)

 どうですか、この諦観なのですよ。

 身土不二を掲げる人に、その悪影響を説いたって揺らぐわけないのです。悪影響をもたらす環境とともに暮らしていこうと決めた、そのような原則を受け入れたのですから。「まあ不便だけど、でも別にいいよ」くらいなものです。

著者の「科学」と現代栄養学の「科学」

 以上見てきましたように、著者の科学と現代栄養学の科学はだいぶ異なります。そしてだいぶ異なるがゆえに――問いかけは遥か上に行ってしまいましたが――奇異に映るにしても、著者は断食療法に触れるのが必然であったのです。

 農耕の始まる以前、狩猟時代は朝起きてすぐに食べ物がある、なんていう恵まれた環境にはありませんでした*17。そのような環境で、人類は長きに渡って過ごしてきた。であれば、朝食を食べないくらいで頭が働かなくなるなんて構造で、生き残っていけるわけがない、飢えがわずかばかり(数日とか)続いたって、それで的確な判断が出来ず、身体が動かなくなるわけがない。

 このように「科学的」に導かれた認識で、著者ははじめから「朝ごはん」運動を批判していたのです。ですから、そのような認識に沿う、数日絶食時の体内エネルギー状態や、実際に断食を実践しているかたの実情を、ぜひとも記しておく必要があったというわけです。

むすび

 「朝ごはん運動批判か、そうだよ、食育やる人はこの批判に耳をかたむけるべきだよ、栄養教諭課程の人とかさ、絶対読むべきだよ!」なんて思って買った本書だったのですが、非常に残念な結果でした。本書を通じて「身土不二の原則」を自分の中に落とし込めたような気がするのが、唯一の救いでしょうか。

 しかしねえ、著者は著者のいう科学が現代栄養学で受け入れられず、もっぱら分析的科学が食育の分野で大手を振るっていることを批判しておりますが、わたくしはむしろ逆を心配しておりますよ。

 著者は、脳のエネルギーがブドウ糖のみであるという恣意的な内容が『学校給食』に載っていることを問題視しています。なぜなら、管理栄養士で農学博士である河合知子の言を引いて、『学校給食』を「学校給食関係者を主たる読者とし、かつ現場への影響がつよいと考えられる専門誌」であると考えているからです。

 しかしそれを言うのであれば、著者イチオシのマクロビだって学校給食に載ったんです。著者の考える「科学」は、著者の考えているよりもはるかに、食育に食い込んでいるのですよ。

*1:asin:4750330523

*2:asin:B000J7OY7Yasin:4567514734

*3:だって、不誠実な態度はそれだけじゃないからね。著者もそのあとで指摘しているけれども、朝食とテストの関係とか、ほかに様々な要素のあるなかで相関関係が見られたというだけなのに、いつの間にか因果関係であるかのように騙って「朝ごはん」運動を推進しているし。ケトン体については好意的に見ることができるけど、こっちはそうは行かないよ。

*4:というより、「空腹が」または「食間が」と言ったほうがわかりがいい

*5:asin:4621078011これだってそれなりに定評のある生化学教科書なんでしょ。

*6:甲田療法、といったほうがいいんでしょうか。

*7:なんて言ったらいけないのかもしれないですが。

*8:食生活指針については、一定の評価を与えているようです。ですので、食事バランスガイドもまた、たぶん一定の評価をもらえるのでしょう。

*9:だってそのほうが面白いんだもーん。

*10:食糧、食品、料理、栄養素の4つ。

*11:たぶん、現代栄養学の側からもこの手の批判は上がっていると思う。だからこそ、食生活指針であり、食事バランスガイドであるわけだ。WHOだかFAOだかも、栄養素ベースではなく料理ベースでの指針を出しなさいとアナウンスしていたと思う。

*12:というか、わたくしはそう聞きました。

*13:と言っても、栄養学を学ぶはずの学校で「身土不二」の言葉が肯定的に使われていたりするんだけどね。

*14:と勝手に決めつけます。あくまで本書を読んでわたくしなりに落とし込んだ「身土不二」でしかないのですが。

*15:現代は離れられるし、離れなくても環境からの悪影響を少なくできるんだけどね。

*16:著者が言うには、「科学的に導かれた認識」であるのだから

*17:しかしささやかではあるけれども、わたくしはこの認識にも疑問がある。狩猟時代の人たちはものすごく栄養状態が良くて、その結果としてとても身長が高い。彼らの身長に再び追いつくのって、19世紀後半だか20世紀だかじゃなかった? だとすれば、それほど空腹にあえいでいたとは思えないんだけど。